間瀬銅山 ~旧日本軍火薬庫跡編~

2014.07.07.Mon.21:07
途中から来た方や検索結果から来られた方は「TOPページ」から読まれることをオススメします。

この銅山の魅力を更に高めている物件がある。
まさかこんな場所にこんなモノまで眠っているとは。。。新たな坑道を発見した際の興奮が蘇る。

旧日本軍によって使用された火薬庫が眠っている!

御覧ください。

P5100257_R.jpg

しかもこの弾薬庫
「飯場編」で登場した間瀬石の石切場跡から採掘された間瀬石で造られたものとの事。

自分の足で散策し、見つけた石切場跡から採掘された石で更に見つけた遺構が形作られているとは非常に胸熱くなる展開だ。

内部を覗いてみる。
当然なにも残っていない。

P5100259_R.jpg

なお同じものが三棟残ってます。

P5100260_R.jpg


よく調べると当時のであろう。
防爆仕様になっており何らかの事故で爆発するようなことがあっても、被害が最小限になるよう盛土がされている。
ここまで状態良く残っているのは貴重ではないだろうか。
P5100261_R.jpg

この火薬庫を作った部隊を調べようと相当な文献を調べたが今だに不明。
新潟に陸軍だと第十三師団の所属部隊か、それとも地元の方を動員して製作したのか、海軍が製作したのかさっぱり謎。
我が部隊の優秀な情報部部長の婆ちゃんでも当然知らなかった(´・ω・`)

詳細をご存知の方いましたら教えていただければ幸いです。


2015年4月追記
当初、完全に軍事目的の旧日本軍による「弾薬庫」だと思い込んでいました。
しかし交戦記録を調べても精々、米軍敷設による機雷の漂着くらいしかなく、近辺に軍事的要所や大きな基地もなくこのような場所に弾薬庫を設置する理由が不明だった。
余談だけど、今や一部で有名な特III型駆逐艦の2番艦「響」が1945年から新潟港沼垂岸壁へ回航されて防空砲台となっていますね。
хорошо !

話は戻り、これは憶測だが、普通に考えてこの遺構は間瀬銅山採掘に使用した「火薬庫」であり、戦中にも採掘された歴史を持つ(軍の関与は不明)ので、軍管理下にあったために「火薬庫」が「弾薬庫」と誤認されたのではないだろうか。
あくまで個人的の根拠もない推測だけど。まあ広義の意味では「弾薬庫」も「火薬庫」も同じ意味かもしれないが。
あくまで推測ですよ。
引き続き詳細求む!
スポンサーサイト
コメント

管理者にだけ表示を許可する