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持倉鉱山(冬季編)

2015.03.31.Tue.22:32
「冬の持倉へ行ってみないか?」

仲良くさせてもらってる「柵の向こう側」のまこちゃんさんよりお誘いがあった。
色々なノウハウ勉強させてもらってる隊長的ポジションの方(`・ω・´)ゞ

これは行くしか無い
だが自分は雪山なんて一切の経験がないのでこの時点で
「豪雪地帯」→「八甲田」→「雪の進軍」→「雪山遭難死亡フラグ」→「秋山殿」
の図式が出来上がっていた。

ちなみに無積雪期編はコチラ

まあ色々ググったり、スノーシュー等の装備をお借りできる事になり無事当日を迎える。
松尾のプロフェッショナルのSさんも一緒。



あまりの景色の良さと道路を雪中行軍する楽しさにテンションが壊れる。
その結果悲劇も産んだわけだが・・・ゴメンナサイ(´・ω・`)

P3150100_R.jpg


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間瀬銅山 TOPページ

2014.07.07.Mon.21:08
廃なるものの群生地であり魅力たっぷりの弥彦山周辺域。
また金山で有名な佐渡から最も近い距離にある土地。

そこに「間瀬銅山」は貫禄たっぷりに存在する。
なお、2年近くかけて調査しているため結構な長編となります。また今後も加筆する可能性があります。

※2015年4月に歴史及び坑道の再調査を行い、大幅な加筆に加え「仮称第三坑道の完全攻略記事」を追加しました。


※2015年4月 「竪坑及び下層部降下調査記事」を追加しました。



どうやら当サイトが心霊スポットを紹介するサイトで紹介されていると教えて頂いたため、一言だけ。
心霊スポット的な何かを求め当ブログまで来て頂いた方には申し訳ないですが、本当にココは割にあわないんで辞めた方がいいですよ(´・ω・`)/




それでは間瀬銅山の概要から。

【江戸時代】
間瀬銅山の創始については、色々異論があるものの一般的には元禄13年(1700年)に採掘が始まったのが創始とされる。
以前から銅山の存在は確認されていたものの村としては山を荒らされたり風紀が乱れることを嫌い採掘の申し入れを断っていた。
しかし、そんな反対を押し切り始められた採掘事業も5年間という短期間で中止された。
その後、嘉永6年(1853年)ペリー来航以来、大砲や小火器の製造に必要な銅鉄の需要が急速に増大した事により採掘願いが出る事もあったが基本的には明治に入るまでは村外の人が来て、時折個人的に掘られた程度だったようだ。
まあ村人にしては迷惑な話だったようだ。

【明治時代】
・明治日本における鉱業政策
政府は、明治2年(1869年)にイギリス、アメリカ、フランス、ドイツの4国より鉱山技師、土木技師、地質学者、大学教授、鉱夫長、鉱夫等78名を日本に呼び最新技術の導入に務める。
これにより、採掘鉱の組織化、機械化はもちろんのこと、運搬、排水の機械化、選鉱、製錬の改善が推進された。従って、今までの人力を主とする作業のために行き詰まっていた各鉱山が蘇生し、近代的な形態に脱皮し、その経営の基礎を安定するに至った。
鉱山の近代化は、統一的採掘計画を中心に進められ、立坑・水平坑道が組織的に開削され、立抗には蒸気巻き上げ機が設置され、水平坑道には鉱石運搬軌道が敷設された。
採鉱では、階段式採掘法が導入され普及した。これにより、背負い籠による鉱石運搬、非組織的な狸掘りなどは官営鉱山では駆逐されていった。坑道掘削は、のみとつちから、明治元年に黒色火薬発破法が導入され、普及し、1878 年(明治 11 年)にダイナマイトが輸入され、発破に使用された。これにより、開削能率は飛躍的に増大した。また、1882 年(明治 15 年)からピストン式削岩機が一部で使用され、ダイナマイト発破法と組み合わされ、威力を発揮するようになった。

・明治における間瀬銅山
日本全体では一躍、鉱山は近代化が進んだ時代であったため日本全体の話は多くなるが、間瀬銅山に関しては、最盛期を誇った大正時代と比べると残っている資料は少ない。
明治7年(1874年)に柏崎の実業家の岩下氏のもと間瀬村民の手により手掘りではあったが本格的に操業を始めた。
その後、経営を拡大、次第に生産量も増大していった。


【大正時代】
・大正における間瀬銅山
間瀬銅山はやがて金融家の白勢春三氏の手に経営権が移り、本格的な鉱山らしい姿になってゆく。
大正元年(1912年)~大正4年(1916年)の4年間が全盛期であった。←ココ大事
月産最高60トンの生産を上げ、銅の品質も大変良くその保有量は全国5位を誇った。
しかしその後は産出量の減少、銅の値段の下落、大正8年以降の不景気により最終的に大正9年(1920年)2月に休山となり事業を閉鎖した。


【昭和時代】
・昭和初期、中期における鉱業政策
明治 35 年(1902 年)頃までに、ほぼその基礎を確立した我が国の金属鉱業は、日露戦争(1904 ~ 1905 年)、第1次世界大戦(1914 ~ 1918 年)による国内市場の拡大と海外市場の好況によって、その規模を急速に拡大した。
しかし、戦争がもたらした未曾有の好況によって、急激な発展を遂げた金属鉱業は、第1次大戦終結後の 1920 年(大正9年)に発生した戦後恐慌によって、大きな打撃を受けた。
特に、軍需性の高い銅、亜鉛は著しく影響を受けた。これ以後、金輸出再禁止の行われた 1931 年(昭和6年)まで、不況は慢性化し、金属市況は立ち直れなかった。

1931 年(昭和6年)の金輸出再禁止による金属価格の騰貴、同年の満州事変を契機軍需産業の発展によって、長く不況の重圧下にあった金属鉱業は活況を取り戻し、戦時体制への移行とともに発展した。日中戦争開始以降は、戦略資材の国内自給体制確立の政策に沿って、政府による資金、資材、労働力の各方面にわたる強力な助成のもとに増産が行われた。生産は各種金属とも記録的な水準に達した。
しかし、敗戦直前には、乱掘による鉱況の悪化が著しく、設備の消耗、労働力の不足なども加わって衰退に転じた。


・昭和における間瀬銅山
当初、間瀬銅山は「大正時代」には閉山されていると思っていた。
しかし2015年4月の再調査により昭和の、更に言えば終戦まで若しくは戦後数年までは使用されていた可能性もでてきた。

まず大正時代に比べ致命的に昭和における間瀬銅山に関する資料が存在しない理由。
特に太平洋戦争開始に伴い、日本は深刻な金属不足に陥る。そこで日本全体で休止鉱山も含め採掘が開始されるが、貴重な物資が採掘される鉱山の詳細は当時、重要な国家機密である。
戦後の高度経済成長期における民間鉱山ならいざ知らず、戦時中の詳細な鉱山の資料が出てくるのは稀であろう。
行き当たりばったりの乱掘も多く資料が存在しているかどうかすら怪しい。

ただとある書籍に短いが確かに
「昭和18年(1943年)3月より事業を再開したが、さっぱりだめで昭和20年(1945年)敗戦と同時に閉鎖された。
その後も度々ブローカーが入りこみ調査したが、ものにならず現在もそのままになっている。」
と記載されている。
最盛期を過ぎ閉山した後の昭和の時代にも間違いなく採掘は行われていたのだ。


【操業時の証言】

間瀬銅山の貴重な証言を見つけた。
「巻高校」の同窓会が発行している新聞「巻タリアンニュース第30号」掲載記事に「元・陸軍工兵中尉 関根五郎さん」に関する文章で間瀬銅山に関する記述を見つけたのだ。以下、記事文章引用。

「間瀬銅山」は、関根五郎氏にとって忘れる事の出来ない思い出の場所であった。ここでは黄銅鉱を炉に入れ燃焼させ、硫黄部分を取り除き、良質な鉱石を間瀬海岸から船で運び出していた。亜硫酸ガスが燃え、異臭を放ちながら実にきれいな炎を出していた様子が関根五郎少年の目に物珍しく、海岸で遊んだ帰り道にはいつも立ち寄ってはじっと観察していた。トロッコで運ばれてきた採石の中には、美しい形をした紫水晶のきれいな石もあり、ここで採れた沸石は、間瀬銅山を潤わす重要な産出物であった。(巻タリアンニュース 第30号より引用)



とのことである。
関根五郎氏がこの光景を見たのは少年時代。具体的には巻高校卒業前だ。
関根五郎氏が巻高校を卒業したのは、1924年(大正13年)。
先述したように某図書館で手に入れた資料によれば間瀬銅山は一度、大正9年(1920年)2月に閉山している。
推測だが、少年時代の関根五郎氏は年代的に間瀬鉱山最盛期創業時の様子を見ていたのではなかろうか。

ん?んんん?
トロッコ・・・だと・・・!?


証言には「海岸で遊んだ帰り道にはいつも立ち寄ってはじっと観察していた」とある。
推測に推測を重ねることになるが、少年が学校帰りに山深い坑口まで行くとは考えにくい。(まだ未発見の製錬所近辺の坑道から来ていた軌道トロッコである可能性も捨てきれないが)
となると・・・だ。

飯場にあった「製錬所」まで来ていたトロッコではないだろうか!?

これまで坑道内では木製軌道を発見したものの、製錬所付近では索道はもとより軌道跡などなんの痕跡も見つかられなかった。
しかしながら、TOPページの間瀬銅山の歴史を見ていただければ分かるように、最盛期は大正時代、その後の昭和18年(1943年)3月より採掘を開始し、昭和20年(1945年)敗戦と同時に閉鎖された。

明治時代に日本の鉱山は急速に進み、これまでの背負い籠による鉱石運搬は官営鉱山では駆逐され、水平坑道には鉱石運搬軌道が敷設された。
まああくまで、上記の話は官営鉱山の話であり小規模な間瀬銅山ではその限りではないのかもしれない。

けど!

そこはロマン!
自分は間瀬銅山には坑道から製錬所までトロッコが通っていたと信じたい!
なぜなら最盛期には月産最高60トンの生産を上げて、その保有量は全国5位を誇った。
しかも戦中から終戦まで、まともに採掘量を得られなかったとしても掘っていたのは事実。

それらを背負い籠などだけで鉱石を運搬していたとは考えにくい。
そこに今回の関根五郎氏の証言を発見したのだから余計に信じたくもなる。少なくとも索道!
現地に行けば分かるが、少なくとも仮称第三坑道から背負い籠のみで鉱石を製錬所まで運ぶことは相当な重労働である事はわかる。


【間瀬銅山の位置】

まずコチラが周辺の簡単な概略図。

image-004 t2_R



ちなみにこの地図、見た目の通り大雑把です。
なのでそれぞれの大まかな位置関係の把握程度にして下さい。

この地図を参考に鉱山等を見つけ出そうとしている方にはガッカリなお知らせですが、敢えて言わせてもらうと上記の理由で多分ムリです。
結局、自分も道無き道を1年以上這いずりまわって偶然見つけたものが多いです。
正直な話をすれば、地図から容易に位置を特定できるようなものは、ネット上に掲載できなしね。

話が逸れました。
概略図でも分かるように、周囲には鉱山が複数あったことが確認できると思います。
その上で普通「間瀬銅山」といわれているのは、新潟白勢財閥の経営した地域を称し、江戸時代銅山の始めより、明治期の頃から同じであった。
この辺に最大の鉱床があったものと推量される。
外にはやはり、これと続いた鉱脈や、切れていても少し離れた場所にもあり、現在知られているこれらの場所を総称し「間瀬銅山」と呼ぶこともある。

【新潟白勢財閥】
新潟県北蒲原郡の地主の分家の家系で、明治維新ののち銀行業で大成功をおさめる。間瀬銅山の経営や新潟電力を設立するなど新潟の近代化にも尽力し、新潟三大財閥の一角を担ったが、第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による財閥解体の指令により解体された。



歴史や地理に関する机上調査報告は以上です。
聞き込みに協力して下さった地元の方々や多くの情報を提供して下さった関係職員の方々などへここで感謝の意を示したいと思います。
ありがとうございました。


それでは、山へ入り状況開始と行こう!
一応、上から時系列順になってます。


・飯場編

・明神沢立坑編

・林道開ノ木線編

・謎の廃屋捜索及び鉱山水路跡発見編

・旧日本軍火薬庫跡編

・第一、第二坑道及び狸掘り跡発見編

・第三坑道突入編

・再調査報告 ~第三坑道完全攻略編~

・竪坑及び下層部降下調査編

※なお周辺には多くの鉱山があり、上記の通りそれぞれの鉱区の境界線等が不明確なため、ここでは便宜上「間瀬銅山」としてあります。

間瀬銅山 ~飯場編~

2014.07.07.Mon.21:08
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林道を進んでいく。
フラットダートでオフ車としては物足りないような道。

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道を進むと早速、面白そうな遺構が迎えてくれた。
これは!
鉱山遺構の索道か!


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間瀬銅山 ~明神沢立坑編~

2014.07.07.Mon.21:08
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これから向かう目的地は「明神沢立坑」
鉱山好きの方ならご存知かも知れませんが一応解説すると

【立坑】 垂直に掘削された坑道。地表と坑内深部を結ぶ主要通路。巻上機を備え鉱石,石炭,人員,資材を運搬し,通気を兼ねる。

現実離れした地獄へ通じそうな深い穴は、ゾクゾクする不思議な魅力がある穴です。
当然、落ちたら即死間違いなしな穴が多いので最大の注意が必要な相手でもある訳ですが。。。

飯場を抜け、弥彦山へ向かって高度を上げていく。
真冬に散策したため沢も凍りついてる。

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間瀬銅山 ~林道開ノ木線編~

2014.07.07.Mon.21:08
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結論から言うと恐らくこの林道は鉱山とは無関係です。
ただ廃鉱山に隣接する林道というのも中々萌えるので同じカテゴリに含みました。

現在地はこの辺

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